漢方の歴史

遡る事紀元前2,700年頃に新石器時代、農耕の神様として神農様がおられました。後に漢方薬の原料である生薬も作物の一つであり、たくさんの人に農耕と医療を教えたと伝えられているため、農耕と医薬の神様とされている。世界最古の本草書に神農本草経として名を残している。この頃の日本は、縄文時代である。

時が経つ事700年程、紀元前2,025年に岐伯・伯高・雷公・少兪・少師・仲文等が当時の名医として腕を奮っていた。釈迦・孔子生誕が紀元前550年位。東洋医学での名医である扁鵲・長桑が活躍し、紀元前221年に中国統一がなされる。この頃、日本は弥生時代に入る。

紀元に入り、前漢、新の時代に入ると薬草について書かれている神農本草経と東洋医学の生理学を著した黄帝内経が世に出る事になる。そして、紀元100年頃になり紙が発明される。この頃までは、竹を縦に割ったものを紐で結んだものに書かれていた。そして、東洋医学の生理学を著した黄帝内経と生薬の効能を記した神農本草経を元に、東洋医学の聖本とされる張仲景(張儀)の記した傷寒雑病論と金匱要略が出版される。この2冊は現在の中医学(中国の東洋医学)では基本として捉えられており、日本の東洋医学の一流派では、正に聖本とされる。内容は、疾病に関しての治療法と誤治した際の治療法が書かれている。

日本の飛鳥時代に入り、仏教伝来、医薬書伝来という日本にとって文化革命にも匹敵される出来事がありました。また、遣隋使が派遣されたのも時期を一致している。中国でいう宋代になると、印刷本が出版されるようになる。この時に前出の小寒雑病論と金匱要略に手を加えられ宋版と言われている。現在出版されているものは、この宋版である。この時期に日本独自の東洋医学である漢方の大家が輩出されており、医心方の丹波康頼、啓迪集(けいてきしゅう)の曲直瀬道三が有名である。中国では、国家機関の関与により医薬品処方集である和剤局方を発行される。紀元900年後半の出来事である。

時代は過ぎ、安土桃山時代になり、後の後世派呼ばれる一派に大きな影響を与える龔廷賢(きょうえんけん)や李時珍(りじちん)により生薬の効能をを謳う本草綱目が出版される。

近代になり、五行論を排し、近代日本漢方に多大な影響を与えた吉益東洞の著書、薬微・類聚方は古方の一派の聖本になる。弟子の華岡青洲も名を馳せている。明治末期、漢方が衰退していった時、和田啓十郎の跡を継いで現代の漢方の基礎を築き上げた湯本求真が著した皇漢医学で漢方医学の体系を明らかにし、大塚敬節・矢数道明を初め多数の漢方家に影響を与えた。

漢方という名前の由来として、江戸時代中期に伝えられた西洋医学を「蘭方」という名称に対して、「漢方」という呼び名が由来になったとされています。